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掲載日:2017年7月10日更新

鍋掛松

鍋掛松の写真

芋煮会発祥の地

 最上川舟運が中山町長崎から荒砥まで通じたのは、元禄7年(1694年)のこと。最上川舟運航路が新設されるまでは、現在の中山町長崎付近が最上川舟運の終点で、中山町中央公民館の西のあたりに船着き場があり、米沢方面へ船荷の積み換えが行われた要地でした。 内陸からは米、紅花などを運び、いっぽう、京都からの帰り荷には衣料、蚊帳、ひな人形など、上方文化を積み帰ってきました。

 大正時代の終わり頃までは、中山町中央公民館とJR左沢線の鉄橋との中間に「鍋掛松」という老松があって、そこが船頭たちの休み場でした。酒田から船で運ばれてきた塩や干魚などの資材はここで降ろされ、人足たちに背負われて狐越街道を越え、遠く西置賜地方へと運ばれていきました。

 なにもかも不便な昔のことなので、酒田船と人足間の連絡などうまくとれるはずもなく、船頭たちは船に寝泊まりしながら何日も何日も船が着くのを待たなければなりませんでした。また、何日も風を待つこともありました。

 そんな時に、京都から運ばれた棒だらと地元の里芋を材料に河岸の松の枝に鍋を掛けて、煮て食べました。 船着き場のすぐ近くには、里芋の名産地である小塩という集落があるので、前々から予約しておいた里芋を買い求め、船に積んでまた棒鱈などの干魚といっしよに煮て、飲み食いしながら待ち時間を過ごしました。その時、そばにあった松の枝に鍋をつるして芋煮をしたので、やがてこの松が「鍋掛松」と呼ばれるようになりました。そんな退屈しのぎのひとつとして発生したのが芋煮会のはじまりと言われています。

 これが山形名物「芋煮会」の始まりであり、ここに立つ松が「5代目鍋掛松」なのです。初代とされる松は大正6年に大風で倒れ、2代目はJR(旧国鉄〉左沢線の工事で切られました。その後何度か復元され、現在の五代目はひまわり温泉ゆ・ら・らの敷地内で芋煮会を楽しむ人々を見守っています。

場所

ひまわり温泉ゆ・ら・ら<外部リンク>敷地内の北側

その他の情報

『中山町は芋煮会発祥の地です!!』サイト

『元祖芋煮会in中山』サイト

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