ひな人形の種類
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| 古今雛 | 享保雛 |
ひな人形の種類
立雛(たちびな)
立雛は文字どおり立っている姿の雛のことで、坐っている内裏雛に対してそう呼ばれたのでしょう。立雛の多くは衣裳が紙でつくられていることから、紙雛とも呼ばれています。平安時代の「ひいな遊び」とお祓いの「かたしろ」が、時代の流れの中で結びつき、とけあってできたのが立雛でひな人形の源流のひとつとされています。
坐雛(すわりびな)
坐雛の中には、その製法の上から、裂地(織物)の装束をつけた衣裳雛、土焼彩色の雛などいろいろな種類のものがありますが、その中心をなしてきたのは衣裳雛でした。
現存する雛には、江戸時代を遡るものは今のところないようですが、坐雛には俗に室町雛(むろまちびな)とか、寛永雛(かんえいびな)とか享保雛(きょうほうびな)などと、まことしやかに時代の呼び名をつけているものがあります。しかし、これは決してその時代につくられたことを意味するものではなくて、ひとつのスタイルに対して与えられたものにすぎません。坐雛にはその他、次郎左衛門雛とか有職雛(ゆうそくびな)、古今雛(こきんびな)などと呼ばれているものがあります。
室町雛(むろまちびな)
室町雛は、坐雛の一番古い形式とされていますが、いつ頃つくられたのかは明らかでありません。ただ、雛の頭やポーズ、装束の状況、古式立雛との比較から、江戸前期の作と考えられています。丸顔の頭をみると、宝暦以後流行した次郎左衛門雛と大変よく似ていますが、形式が非常に古いことから、次郎左衛門雛の源流であるともいわれています。
次郎左衛門雛(じろうざえもんびな)
丸顔の頭のものを一般に次郎左衛門雛と呼んでいます。これは、京都の人形師、雛屋次郎左衛門によりつくられたことから、製作者の名前で呼ばれています。はじめは上流階級のひな人形でしたが、宝暦11年(1761)に江戸の日本橋に店を出してからは、一般にも流行していました。
天明(1781〜1789)のころの川柳に「きめのいい、団子に目鼻、次郎左衛門」と詠まれています。
寛永雛(かんえいびな)
寛永雛は、坐雛の中では室町雛に次いで古いと考えられています。この雛の特徴は、男雛では冠を頭と一緒につくってしまう共冠(ともかんむり)で、髪を植え付けていないこと。女雛では額の生え際に作り眉を描き、装束は、小柚、袴で、室町雛と同じように袖を左右に開いていることなどです。
享保雛(きょうほうびな)
享保雛は、江戸中期の享保(1716〜1736)ごろに流行したといわれる雛です。衣裳は金襴(きんらん)や錦(にしき)をつかった豪華なもので、男雛は束帯(そくたい…昔の朝廷の正式の礼服)に似た装束で、手に笏を持ち、太刀をつけています。女雛は五衣(いつつぎぬ)・唐衣(からぎぬ)に似せた装束で、袴のなかに綿を多く入れて丸くふくらませ、宝冠(ほうかん)をかぶり、檜扇(ひおうぎ)を持っています。
享保雛には大型のものが多く、中には70pの雛もみられます。
古今雛(こきんびな)
古今雛は、明和(1764〜1772)のころ、江戸の上野池端の大槌屋が十軒店の人形師、原舟月(しゅうげつ)に顔を彫らせて売り出したといわれています。写実的な顔と、見た目のきれいな装束が人気を集め、江戸ばかりでなく京、大阪でも大いにもてはやされました。江戸末期のころには、雛の眼に水晶やガラスがはめ込まれるなど、つくりも精巧になっています。
有職雛(ゆうそくびな…高倉雛・山科雛)
一般の雛人形は、見栄えの良いようにつくられましたが、公家(くげ)衆の装束は、身分や年齢、季節によって違うので、公家衆の実際の礼式にかなうように正しく調べてつくられたのが有職雛です。
宝暦(1751〜1764)のころつくられましたが、一般に売り出されたものではなくて、公家衆が特別に注文してつくらせた雛です。朝廷に仕えて、公式の装束の製作を受けもっていた高倉家、山科家に衣服をつくらせたことから、高倉雛、山科雛とよばれることもあります。
竹田人形
竹田人形は、おもに大阪でつくられたといい、その名も操(あやつ)り人形で名高かった浪花の竹田座に基づいたのであろうといわれています。
ヘの字にまげた口、つり目、つり眉など、歌舞伎特有の表情をつくり、身体をひねった動きのあるポーズをとらせているのが特徴です。また、格狭間(こうざま…くりぬき)のある黒塗りの台上にすえている点が、すべての竹田人形に共通しています。
御所人形(ごしょにんぎょう)
御所人形は、享保(1716〜1736)のころ京都でつくりはじめたと伝えられ、頭の大きな、体の丸々とした幼児の裸人形です。
西国の大名が参勤交代のおり、京都の御所や公家たちに贈り物をした返礼に、この人形が贈られたことから、その名が起こったともいわれています。
市松人形(いちまにんぎょう)
市松人形は、子どものもてあそび人形として広く親しまれ、衣裳を季節や行事にあわせて着せかえて、抱いたり背負って楽しみました。
名前のいわれは、市松模様で有名な役者、佐野川市松の姿形を真似てつくったので、市松人形とよばれるようになったといわれています。中でも、上等な人形は三つ折れ人形といわれ、足の付け根、膝、足首が折れ曲がる仕掛けになっており、立っことはもちろん、足を投げ出して坐ったり正座もできました。
竹鍛冶人形(たけかじにんぎょう)
竹鍛冶人形は、大正初期の中山町長崎で、わずか4〜5年という短い期間につくられた土人形です。作者の松木竹治は、はじめ鍛冶職人として活躍しましたが、後年仙台の堤人形師に弟子入りして技術を身につけ、帰郷後、自宅に炉を築き内職のようにして土人形をつくり始めたといわれています。
人形は、焼かずにただ乾燥しただけなので、柔らかくてもろく、明るいコバルトと金彩色に特徴があります。
男雛と女雛の位置について
雛を飾るときの男雛と女雛の位置については、昔と今、関西と関東では左右が反対になっています。雛飾りで左右というのは、“左近の桜"(さこんのさくら)“右近の橘"(うこんのたちばな)というように、内裏さまの方から見ての左右をいいます(左大臣・右大臣も同様)。
男雛と女雛の位置がかわったのは、昭和になってからのことです。昭和天皇の即位式が京都の紫宸殿(ししんでん)で行われたとき、天皇の高御座(たかみくら)が中央にあり、向かってその右方のややうしろに皇后の御帳台(みちょうだい)がおかれてあったことから、それにならったようです。